クリスチャンの皆さ〜ん、神様が与えて下さった自分の郷里、「住めば都」の第二第三の郷里も含めて、大いに愛し、大いに誇りましょう!

 

このページは私の郷里佐世保の紹介です。佐世保もよかとこけん、いっぺん来たらよかたい!来(こ)んばよ(佐世保もよいところだから、一度来てみたらいいよ来てね!

 

その3 佐世保のミニ歴史

 

佐世保市は北に平戸市と松浦市、南に西海市、東南に波佐見町と川棚町が隣接する人口約25万人の長崎県北部の主要都市ですが、明治に入る前は「佐世保村」と呼ばれる人口千人(三千人?)ほどの寒村でした。しかし1886年に明治政府が佐世保に鎮守府を設置すると決めた時から人口が増え始め、日本海軍の町として急激に栄えて行きました。日清戦争と日露戦争では国内の最前線の軍港として活躍し、第一次世界大戦でも大切な軍港として機能しました。しかし、太平洋戦争後は、米軍が佐世保の海軍施設を使うようになり、米軍と海上自衛隊の町として知られるようになり今日に至っています。ウィキペディア等を参考に、もう少し詳しい佐世保の歴史を紹介してみましょう(詳しくはウィキペディアの「佐世保の歴史」をご覧ください)。

      どこから撮っても美しい港町、佐世保

 佐世保の歴史を語る時に、鎌倉時代に北松浦半島周辺に勢力を広げ、元寇の時に活躍した倭寇とも縁のある水軍「松浦党」の存在がその出発点のようです。しかし、考古学の調査によると、佐世保には旧石器時代から人が住んでおり、日本の歴史に貢献する重要な遺跡(泉福寺洞窟等)もあります。又、奈良時代頃の風土記には佐世保近郊(早岐)の豪族が当時の天皇の命令により討伐されたことが記されています。平安時代に入ると「松浦党」の先祖たちが佐世保近郊で勢力を伸ばし始め、鎌倉時代を経て室町時代になると松浦一族のうち佐世保に最も近いグループが、自分たち一族(佐世保氏)の名前を基に「佐世保城」を建てました。その時が佐世保の始まりと言えるようです。

 

 戦国時代に入ると、平戸松浦氏と本家である宗家松浦氏と大村氏の三者が争いを繰り広げ、宗家松浦氏は平戸松浦氏に飲み込まれてしまい、それがそのまま廃藩置県前まで平戸藩と大村藩(西海市を含む)として存在することになったようです。江戸時代には中里と佐世保と早岐に本陣が置かれますが、この当時は相浦(あいのうら、佐世保から北に約10キロ)と早岐(はいき、佐世保から南に約10キロ)のやや大きな集落以外は小さな農村と漁村が広がっていたようで、先に述べたように、明治に入る前は、佐世保は千人ほどの小さな村でした。(地図は平戸市と松浦市と佐世保市の一部で、佐世保湾が右下に小さく見えます)

 

 日本海軍の鎮守府が設置されてからはお隣の佐賀県からの移住者(市民の8割)が増え、九州で5大都市の一つ(長崎市より大きい)に数えられるほど大きくなります。最も人口の多い時は35万人ほど住んでいたようです。佐世保の南方約20キロ付近にある3本の無線塔(針尾無線塔)から、太平洋戦争の始まりとなる「真珠湾攻撃」の指令が出たとも言われる、日本軍の誇りでもあった佐世保市は、太平洋戦争末期には市中心部が空襲を受けて焦土化し、終戦後日本海軍が解体されると、移住者の多くは地元に帰り人口は急激に減って行きます。佐世保と言えば今はハウステンボスが有名ですが、終戦直後は140万人を超える戦争の引揚者がハウステンボス付近に失意と病のなか上陸すると言う、悲しい歴史も持っています。(画像には米軍と海上自衛隊が移ってます。)

         西海橋公園から見る針尾無線塔

戦後佐世保を軍港から「商港」に、又、九十九島で知られる美しい風景が国の18番目の国立公園(西海国立公園)に指定されると、佐世保を「商港」だけでなく「観光地」に変える動きが起こりましたが、朝鮮戦争が始まってしまい、米軍を中心とした国連軍の前進基地として「軍港」が継続することになりました。そして現在に至っています。今日の佐世保の課題の一つは「軍港」の機能と「商港」の機能の棲み分けのようです。(画像は展海峰からみた九十九島の一部です。)

 

        展海峰から遠くに見える佐世保

キリシタンの歴史としては、佐世保近郊に多くのカトリック教会があるので、地域の神父さんたちは詳細な歴史をご存じだと思います。殉教の歴史に関しては平戸藩と大村藩の厳しい迫害は有名ですが、佐世保での殉教のことを知ることは難しいようです。但し、ポルトガルとの南蛮貿易に関しては、興味深い歴史があります。ザビエルも関与した平戸の貿易で、キリスト教を持ち込んだポルトガルの商人たちと仏教徒との島民とが激しくぶつかって平戸での貿易を断念した後、最終的に南蛮貿易の拠点は長崎に移ることになります。しかしその前に、大村藩主の大村純忠(すみただ、後にキリシタン大名になる)から西海市の横瀬浦を次の貿易の拠点として使うことが認められます。そして小さな横瀬村が一気に南蛮貿易の中心地となって大いに栄えます。その繁栄も周りの激しい反対と攻撃にあって数年で終わりを迎えてしまうのですが… 横瀬浦の八ノ小島には十字架が立っています。当時も同じ島に十字架が立っており、南蛮船のための目印となっていたとのことです。この横瀬浦が佐世保湾内にあることは興味深いものです。(浦の入り口の丸い島が八ノ小島です。)

 

          野崎から遠くに見える横瀬浦

      更に遠くの向こうには左半分の真ん中に針尾無線塔が見える

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