聖書の教える「神の救い」

 

厳密にいえば、「神の救い」を得るために次のことは必要ありません。

 

◎教会員になって毎週教会の礼拝に出る。

洗礼を受ける。

(受けなければ救われないと言う立場の教派や教会もあります)

教会に献金を捧げる。

酒、たばこ、ギャンブルを止める。

教会で奉仕や何らかの「修行」をする。           

 

 ではいったい何が必要なのでしょう。聖書の救いを得るために必要なこと、それは、聖書の福音」を信じること(自分のこととして受け入れること)、これだけです!聖書の福音」とは次のことです。Iコリント1517で、キリストの弟子であり異邦人(ユダヤ人以外の人)の宣教師であったパウロがコリントの教会に次ように書いています。

 

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣(の)べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

 

この聖書のことばの意味がすべて明確に分からなくても、特に太文字の部分を真摯に真心から神様に「このことを自分にとっても本当のことであると一生涯信じ続けます」と告白のお祈りするなら、神様はあなたのすべての罪を赦し、永遠のいのちを与え、神の子供たちの一人として下さり、あなたは「クリスチャン」として「天の御国」の会員名簿に登録されます。又、告白の祈りをした時から御聖霊が信じた者の心に住まわれます。これは登録の保証と言えるものです。これが聖書の教える救いです。この「聖書の救い」は、いつの時代でも、子供でも大人でも、学者でも無学でも、貧乏でも金持でも、病床でも健康でも、どの国籍でも、元気な時もいまわの際でも、性別に関係なく与えられます。

 

但し、パウロは「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣(の)べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」と言っていますので、告白したことを忘れることがないようにある程度の理解も必要です。それで、上記の「聖書の福音」が少しでも理解できるように、聖書全体から簡単に説明します。

 

先ず「聖書の示すとおりに、私たちの罪の為に死なれた」について説明します。「聖書の示すとおりに」の「聖書」は厳密には旧約聖書のことです。しかし新約聖書(イエス・キリストのことば等)も含むと理解しても大丈夫です。聖書は次のように教えています。

 

旧約聖書によると、この世界には、神は、万物を創造された神お一人だけです。一人ですが「三位一体」の神と言う、人間には理解の難しい「ただ一人の真の神」です。「三位一体」の神は、父なる神、子なる神、聖霊なる神の「三人(三者)」です。「三位一体」と言うことばは聖書には出てきませんが、教会の歴史の中で聖書の神を現すものとして受け入れられ定着していったものです。クリスチャンの学者の誰一人として、この「三位一体」の神が「ただ一人の神」であることを完全に説明することはできません。

 

神(「三位一体」の神)は万物を6日間で完全なものとして創造されました。神はご自分の創造を大いに喜び、7日目に特別に休んでその日を祝福し、聖なる日と定めました。又、6日目に最後の創造となった人間だけは、完全な自由意志を持つ者として「神のかたち」に造られました。「神のかたち」とは動物と人間の決定的な違いをみれば少し分かります。動物は人間のように発達した文明(スマートフォンや高層ビル等)を造ることができません(知性)。例えば、動物園のサルの檻ではコンピューターでインターネットを楽しんでいる姿を見ることはできません。又、動物はある面で人間より優れた本能を持ってはいても、人間のように音楽や芸術や文学で自分の微妙な感情を表すことはできません(感情)。例えば、サルの檻にはギターで曲を作曲して他のサルに聞かせる姿を見ることはできません。更に、動物は人間のように宗教を持つことはできません(意志)。例えば、サルの檻では毎日仏壇に手を合わせて拝む姿を見ることはできません。

 

これら知性、感情、意志の中に「神のかたち」を見ることができますが、聖書によると、人間は永遠に生きることになっています。この永遠に生きることも「神のかたち」と言えます。更に、人間の「神のかたち」と言えます。人間だけが神と純粋で正しい真実の「愛の交わり」を持つことができるのです。神は人間だけを「神のかたち」に造り、愛し合うことも含めて、ご自分と完全な「霊的な交わり」ができるものとして造られ、又、人にすべての被造物を治める任務を与えました。人間の善悪の基準もこの神が人に与えたものです。神の善悪の基準は世の流れによって決して変わるものではありません。

 

完全な自由意志と言う意味は、神に従うことも拒否することもできる自由意志のことです。神は人がご自分の基準に従い、完全な万物と崇高な愛の中に、ご自分と素晴らしい交わりを持ちながら歩むことを望んでいました。しかし、神に完全な自由意志を持つ者として創造された最初の人間(アダムとエバ)は、その自由意志をもって神に背を向けて歩む道を選んでしまいました。そのために人の心に「」が生じ、罪が「遺伝」のように全人類に広がって行きました。

 

聖書の言う「」とは新聞の「三面記事」に出てくる犯罪だけではなく、悪い考え、殺人(心の中も含めて)、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり、不義、むさぼり、ねたみ、争い、欺き、陰口、神に対する憎しみ、人を人と思わない、高慢、大言壮語、悪事をたくらむ、親に逆らう、わきまえがない、約束を破る、情け知らず、慈愛のなさ、同性愛等です。仏教の教えでは「煩悩」と言って108あるそうです。これらの「」が人間社会に不幸と悲劇をもたらしていることは言うまでもありません。「」がなければ、この世は「天国」と言えるでしょう。

 

人によって「」がこの世界に入ってきた結果、そのさばきとして、神は先ずご自分が創造された万物を呪いました。そのためこの世界は完全なものから不完全なものとなり、自然災害などが起こる世界や多くの病(やまい)に苦しむ世界になってしまいました。人が神に背を向けて歩む道を選んでしまったのは、神にとって「万物を呪う」ほどに大きな失望と悲しみであったのです。

 

そして、人は死ぬものとなりました。聖書の教える「」とは、息を引き取って身体が朽ちて土に戻ることだけでなく、霊と魂が神と永遠に離別することも含まれます。聖書によれば、「」がなければ人が死ぬことはなかったのです。不完全な世界とを持つ者となった人間には、それでも死ぬまで、自分も含めて、すべての被造物を正しく管理する任務が続けて与えられており、正しく管理する者は生きている間にそれに見合う「幸福」を得ることができるのです。

 

又、すべての人は自分の行い()に応じて死後に神のさばき(報い)を受けなければならなくなりました。行いは善行も含みますので当然善行に対する報いもあります。神のさばきは完全です。人の「」は永遠の神(聖なる正しい神の栄光と尊厳)に対する違反と侮辱であるので、さばきも永遠の重み(永遠のさばき)を持つ厳しいものです。最愛の人が亡くなる永遠の別れはとても悲しく寂しく辛いものです。霊と魂が愛なる神と永遠に離別することの悲しさ寂しさ辛さ恐ろしさと、その重大さを人間が最も理解可能なものとして表されたことばは、「絶対に消えない地獄の火の中で永遠に生き続ける」と「真暗闇の中で蛆(うじ)に食われながら永遠に生き続ける」と言うものです。これが神の永遠のさばきの重みです。

 

新約聖書によると、「父なる神」は、人がこの「永遠のさばき」を受けないで済むように、ご自分の愛する独り子である「子なる神」を100%神であり100%人であるものとして、地上に送られました。これが世界中で祝われているクリスマスの出来事です。「子なる神」は地上に来た時「イエス・キリスト」と呼ばれました。イエスは人名で「救い」と言う意味があります。キリストは称号で「救い主」と言う意味があります。旧約聖書ではキリストのことをメシヤ(「油注がれた者=王」)と言いますが、これも「救い主」の称号です。イエス・キリストとは「救い主、即ち、油注がれた者()、イエス(救い)」と言う意味です。「の力からの救い主」が良く現れている名前です。キリストは神の前にただ一人「」を犯さなかった「人間」でしたが、人の身代わりとして本来人が受けるべきさばきを十字架の死(刑罰)によって受けられました。キリスト教の教えの中心である「十字架の贖い」のことです。

 

日本の法律でも、今でも、犯罪を犯さなかった者が犯罪者の身代わりに裁き(服役)を受けることができるそうです。但し、一人では一人分だけです。10人の犯罪者の為には犯罪を犯さなかった10人の人が必要になります。このことをキリストの身代わりに当てはめますと、キリストは100%の人間ですので、「」を犯さなかった人間として、一人分の罪人の身代わりに神の裁き(刑罰)を受けることができます。しかし、人間ですとこれで終わりです。ところが、キリストは100%神でもあるので、無限の人として、全人類の身代わりとなって神のさばき(刑罰)を受けることができるのです。そして事実、キリストはそのさばきを受けてくださいました。

 

次にまた、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」について説明します。

 

新約聖書によると、神はキリストを三日目に死人の中より復活させました。そもそも「」は人の罪のためにこの世界に入ってきたものですので、罪のないキリストが「死に続ける」ことはあり得ないのです。キリストの復活は旧約聖書の中でも預言されていました。復活後キリストは約40日間弟子たちに現れ、その後、弟子たちの目の前で父なる神の御許へ昇って行かれました(キリストの昇天)

 

キリスト教は世界三大宗教の一つで全世界にクリスチャンがいます。その出発点は弟子たちが「キリストの復活」を力強く宣教したところにありました。どんなに反対されようが迫害されようが、弟子たち(後の使徒たち)は「キリストの復活」の事実を力強くふれまわりました。彼らはみな殉教したと言われています。彼らにとって40日の間に復活されたキリストに数回会って共に過ごしたことは、とてつもない衝撃的な時間であり、かけがえのない出来事であったのです。

 

弟子たちはキリストが昇天された後、人が死ぬのは「」の結果であり、キリストの復活は「」に対する勝利であったことを少しずつ悟るようになりました。更に、復活の約束がすべての人に与えられていることを知り、いのちを賭けて「聖書の福音」を伝えるようになったのです。

 

最後に「又、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたこと」について説明します。

 

キリストは昇天される前に多くの人たちに現れましたが、特に大切なことは「12弟子」に現れたことです。キリストは十字架にかかる以前に、12弟子に、十字架上で死んで三日目に復活することと、天の父なる神の御許に行かれた後、必ず再び天から地上に戻ってご自分の「」(天の御国・神の国)をお建てになることを約束していました。そして、復活後には、多くの人がその「」に入れるように全世界に出て行って「聖書の福音」を宣べ伝えるように命じていました。そして、昇天するときにも、その場にいた弟子たちに、御使いたちが「キリストは昇天と同じ有様で再び戻って来られます」と約束しました。

 

復活されたキリストはもう死ぬことはなく、永遠に完全に神であり完全に人である存在となり、父なる神の右の座で主権者として行動しておられ(御聖霊を通してすべてを治めておられ)、やがて父なる神の定める時に再び地上に戻ってくることになっています。これを「キリストの再臨」と言います。弟子たちが力強く宣教して回ったのは、復活のキリストに何度か会ったからだけでなく、昇天された後にもキリストは再び帰って来られ「神の国」を建ててくださると言う約束を得ていたからです。

 

弟子たちは、キリストは自分たちが生きているうちに戻って来られると思っていました。信じていたと言ってもいいでしょう。しかし、キリストは戻って来られませんでした。それどころか、弟子たちの時代から2000年ほど経ってしまった現在も、キリストはまだ戻って来られません。いったいどうなっているのでしょうか。聖書は「救われる人が多く起こされるため」と説明してはいますが…

 

聖書のことばが正しければ、キリストはやがて再び地上に戻って来られ、この不完全な世界の歴史に終止符を打ち、完全な「新しい天と新しい地」を造られ(或は、この世界を「新しい天と新しい地」に造り変えられ)、ご自分が「」(最高権威者)として新天地を治められます。クリスチャンはキリストの再臨の時、既に死んだ者はその時に復活し、まだ生きている者はそのまま罪のない「新しいからだ」(栄光のからだ)に変わり、キリストと共に新天地(天の御国・神の国)で永遠に生きることになります。

 

ここまで読んで下さった方で、真摯な心で神様の前にアーメン(はい、そうです!)と言える方、又告白したい方はぜひ次の祈りを声を出して祈ってください。神様はあなたの「信仰告白」を心から喜んで受け入れてくださいます。

 

「天におられる父なる神様、私は上記の説明を読みました。そして、自分が神様の前に罪びとであり、神の子キリストが私の罪の為に身代わりの刑罰を十字架で受け、私の罪の贖い(あがない)をしてくださったことを信じます。又、キリストは復活されて天に昇(のぼ)り、今も生きておられ、やがて地上に再び来て私を「天の御国」に迎え入れてくださることも信じます。どうか私の罪を赦し永遠のいのちをお与えください。イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。アーメン」

 

これで聖書の教える「神の救い」は確かにあなたに与えられました。この「信仰告白」を最後まで持ち続けるなら、周りの人はあなたが「クリスチャン」であることに気づかなくても、キリストの再臨の時、たとえ死んでいても生きていても、あなたには必ず「新しいからだ」が与えられ、キリストが造られる「天の御国・神の国」に入ることができます。天の御国では日本からの多くの「隠れクリスチャン」に出会うかもしれません。又、そう期待しています。もちろん、「隠れクリスチャン」が多いと教会は力強く前進できないので、残念ではありますが…

 

それではなぜクリスチャンは洗礼を受け、日曜日には教会の礼拝に行くのでしょうか。

 

会社の仕事が忙しくてもわざわざ会社を休んで日曜日に必ず教会の礼拝に行く人もいます。なぜでしょうか。幾つかの理由を挙げることができると思いますが、私は二つの理由を挙げてみます。

 

  1. 「勝利の人生」を送ることができるようになるためです。

  2. 「天に宝をたくわえる」ためです。

 

これら二つのことに関して、二つの文書をPDF文書でアップしました。興味ある方はぜひ又このページを訪れてPDF文書をお読みください。教会に行きたくなることを願っています。この二つのPDF文書は「初心者クリスチャン」も念頭において作成してあります。クリスチャン生活についても少し知ることができると思います。

 

長文を読んでくださりありがとうございました。神様の祝福が豊かにありますように。           (牧師 坂口文雄)

 

なぜクリスチャンは洗礼を受け、日曜日には教会の礼拝に行くのか。

1.「勝利の人生」を送ることができるようになるため。

勝利の生活.pdf
PDFファイル 404.3 KB

2.「天に宝をたくわえる」ためです。

天の報い.pdf
PDFファイル 539.1 KB